1997年03月23日

●オープニングコンサート

阪急電車とバスを乗り継いで、お寺の境内にたどり着くと、既に、行列が出来ていました。クラシック好きな人たちって、結構居るものだなぁと思いつつも、自分もその一人であるという自覚など無く、さりげなくその行列に加わった。
出演者の中田潔子さんから、お寺の本堂で演奏するからと、聴いてはいたのですが、いったいどんな風に、観覧できるのだろうかなど、全く想像がつきませんでした。30分前に開場ということで、結局1時間ほど、外で待ったことになるのですが、ようやく開門となり、入り口で、住所やら氏名やらを書き、土足厳禁のため、履いてきた靴をぬいで、本堂へと進みました。
ご本尊というのか、大きな仏像を背にして、簡素にステージ(演奏者の椅子が並ぶ)が、設営されていて、奥のほうから、楽器の音が聴こえる中、私たち聴衆は、自分が座る位置を確保するのに苦労しました。というのも、そもそも此処は、お寺の本堂なので、板の間だし、洋式に椅子に座るというのには、不向きな場所なため、地べたに座って聴く(座布団が用意されていたと思う)というスタイルで、詰め合ったため、かなり窮屈な体勢で、足の痺れと戦いながら長時間を過ごすという、ある意味過酷な情況だったのです。
演奏が始まると、さすがに、美しい音色に、此処が何処であるかなど関係なく素晴らしい感動に包まれるのでした。特に、ハープ、そして、チェロの、各ソリストが弾く曲は、とても素晴らしかったと思います。  最初に、触れましたが、“仏像を背”にするより、“仏像と対面”して、音を発した方が、音響としては、効果があったかもしれないとは思うのですが、それはそれとして、このくらい、演奏家と聴衆が近い場所で、音楽を発し受け止める作業ができる環境はなかなか少ないので、この演奏会は、私にとっては、貴重な体験でした。
余談ですが、演奏が終わって、アンサンブルの皆さんが、私たち聴衆に向かって、お辞儀されたと同時に、ご本尊(仏像)に対しても、お辞儀を忘れていなかったことが、とても印象に残っています。

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1997年03月16日

●シンフォニー名曲コンサート

私と音楽との、主なつながりは、小学校時代に習っていたエレクトーンと、高校時代に入っていた吹奏楽部ということになります。特に、管楽器を演奏するということは、会社に入ってもなお、続いていました。ただし、それは、ある意味偏った世界で、広くクラシック音楽と接する切っ掛けには、なっていませんでした。
自分では、「悩み事を持たない」のが、“とりえ”だとは、思っているのでが、どうも当時、仕事上の行き詰まりみたいなもので、自分自身悩んでいた時期があって、そんな時、楽員の方にお会いする機会があったのが切っ掛けで、クラシックのコンサートに出掛けてみる事も、気分転換にでもなるかなという軽い気持ちで、チケットを買ってみたわけです。
この公演のプログラムがシューベルト・イヤーにちなんだものであったことと、メンデルスゾーンの協奏曲をやったせいもあって、聴きやすく、しかも、センチュリーのレベルの高い演奏に感動してしまいました。  前半のプログラムでは、小さな地震が発生して、少し動揺しながらも、音楽に集中してたし、ヴァイオリン・ソロも素晴らしかったです。後半のブラームスは、力強い演奏で、ブラームスの交響曲っていうのは、随分前にLPレコードで聴いたきりだったこともあって、とても新鮮な感動を覚えました。
従来、私には、「なりふり構わず思うように、感覚だけでうまくいく天才的な世界が芸術」という、揺ぎ無い先入観がありました。ところが、この公演を聴いたという経験は、実は、表現するというのには、“訓練に裏付けられた技術力”が、とても重要なのではないかという、発想の転換を促す機会となりました。
オーケストラが演奏するようなクラシック音楽は、日常生活の中で、極自然に接するという性質のものではないけれど、日常の中で育まれている法則のようなものから、決してかけ離れた特異なものではないという考え方で接してみると、以前よりリラックスした気持ちで、聴けるようになった気がします。
それは、私たちの家庭の中で、ごはんを食べる前に、何に対する訳でもなく、合掌をして、“いただきます。”と、云う様な、何気ない光景に似ています。そういう習慣が薄れつつある日本の家庭で、ふと、そうした情景に出くわした時の感動のようなものなのです。“そんな事で感動しないよ。”と、云われてしまえば、それ迄なのですが、およそ、私にとってのクラシック音楽への感動とは、このような類ものなのです。 大げさな云い回しになりますが、とにかく、今回、この公演を“鑑賞した”という経験は、私にとって、後の進路に、大きく影響を与えてくれたことは間違いないのです。

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